普段は集落の子どもたちの食事を作るためにある〔魔女の大釜〕を持ち出して、〔ガレージ〕内にてささやかな食卓が囲まれた。飲み物は、フローランスに生み出してもらった果実を絞って飲みやすくしたもの。それを、人数分のグラスに注いでいく。
「衛士さんは〜、しばらくこちらの御飲み物だけですね〜」
寝台で座って待つシドの元へ、ネクターが飲み物の入ったグラスを持ってくる。寝台の傍らには、積み重ねた車輪に薄板を置いただけの即席サイドテーブルが、シドの背には、ヴィッダーが生成した背もたれ代わりの綿雲がひと塊でもこもことしている。
「はは……また、前んときみたいに、ちゃんと飯が食えるようになるまで数日掛かるんだろうな」
「〈具無しシチュー〉だけでもお召し上がりになりますか〜?」
「……貰えんなら」
グラスを手渡してくれるネクターの労いが、次には穏しい跫音と笑みに化ける。
「そういや、俺が目醒めた経緯は判ったんだけどよ」
グラスの中身を一気に飲み干して顎を下げたシドとヴィッダーの視線が合う。
「目醒めさせた理由は?」
グラスを片手に掴み、金と灰の眼が僅かに陰る。
「シド復活の御決断をなさったのは、フローランスでございます」
出し過ぎた綿雲を糸にする水塊の子どもは、手元は忙しないままに応える。
「え、二代目がなのか?」
意外な名前を聞き、シドの尖り目が軽く見開く。
「何でまた」
「あぁ、にーさん」
そこへ、食べかけの〈シチュー〉へ匙を沈ませたサフォーレが手を振った。
「御決断をなさったんは二代目さんなんですけどね」
「おう」
「……えっと」
「ん?」
割り込んだものの、はっとした表情で急に口籠るサフォーレ。
「どうした?」
その仕草に小首を傾げるシドヘ、具を避けて注いだ〈シチュー〉の椀を手にするネクターが片手のひらをひらひらとさせた。
「実はですね〜」
「おう」
「はぁぁぁあぁっ! だめですお掃除ねーさん言っちゃ!」
立ち上がる拍子に椅子を真後ろへ倒したサフォーレが慌ててネクターへ駆け寄った。が、次には〈シチュー〉を持ったロングワンピースがふわりと回り、避けられて勢いよくつんのめった御針子が、シドの腰掛ける寝床の前でうつ伏せに滑り転ける。
「あら〜、御針子さ〜ん」
「はー……ネクターって割と良い旋回すんのな……」
「にーさん今の聞かなかったことにしてまじで」
「椅子を御倒しになるのは〜」
「つーか、盛大に転けてたけど大丈夫か?」
「御行儀が御悪いですよ〜」
「すべーんしてかお擦ったいたいもううん」
「まず、椅子をお直しくださいな〜」
「……サフォーレ。まず、ネクターのことが先な」
「はい」
サイドテーブルにそっと置かれた〈シチュー〉の湯気が立ち上り消える速度で、ネクターの間延びした〔お叱り〕がサフォーレをやんわりと撫でた。
その様子を苦笑いして眺めるシドは、椅子が無事に元通りに置かれてひと段落ついたところで、改めてサフォーレを手招いた。
「なんだよ、俺に話せねえことでもあんのか?」
「いや、その。ちょっと事情がありましてん……」
「事情?」
「ええっと……その……」
再び口籠もるサフォーレに、今度はグランツィーリーが肩を叩く。
「わたしが代わりに話しましょうかな」
「大将?」
「あの……その……」
サフォーレとグランツィーリーを交互に見つめるシドは、視線を堕とすサフォーレに手を振り、視線が合ったところでにかっと笑ってみせる。
「今、口にし難いんなら、言いたくなったらでいいさ。でも、ちゃんとサフォーレの言葉で話してくれよ」
「んー……」
「今はほら、飯の時間だしさ」
「……あの」
「おう」
「……えっと」
「うん」
シドの隣で糸を紡いでいたヴィッダーが、サフォーレの様子を気に掛けて水塊の手を止める。
「……ぼく」
ヴィッダーが窺う中、サフォーレとシドの視線が合う。
途端、サフォーレの眼許から流れるものが溢れ出した。
「はっ」
「……何があったんだよ」
ヴィッダーと共に金と灰の眼が驚いて丸くなる。
シドはグラスを椀の隣へ置き、寝台に座る自分の膝へサフォーレを引き寄せた。
その様子を、グランツィーリーとネクター、一歩後ろでディ・ライト、イドロフォーが見守っている。
「どーしたんだよ……」
「ぅぁぃ」
「うら、泣いてるだけじゃ分かんねえって」
「衛士さ〜ん」
「おう」
「〔成長〕して、〔おとな〕になったばかりでした御針子さんには〜、刺激が御強過ぎたみたいなのですよ〜」
「ん? 何が」
「ほっほっほ。貴方が〔御隠れ〕になったことが、ですな」
「え」
ネクターとグランツィーリーのやり取りに目を瞬かせるシドの膝元で、くしゃくしゃ顔になったサフォーレがうらめしそうに背後へ振り向く。
「い、言っちゃだめって言ったです」
「サフォーレ殿、シド殿を長々と困らせるのもいけませんなぁ。彼はまだ病み上がりなのですから」
「……はい」
「ははは」
グランツィーリーに諭されて、サフォーレはシドへと振り返る。
「なあサフォーレ」
「……えっと」
「うら、こういうときは目を逸らさない」
両手で引き寄せ包むサフォーレの頬に伝うものを、シドは両指で拭ってやる。
「うぁい」
「んー……今、話せねえなら無理強いしねえ。でも」
「あの……」
「おう」
「……ぼく、飛行士にーさんのことを聞いたあと、だんだんと〔ゆめ〕見が悪くなってしまって」
その言葉を聞き、シドの眼許が引き締まる。
「まさか、〔悪夢持ち〕に」
「いえっ! ノヴィのおかげで免れはしましたっ」
「……そっか」
迫真としたシドの表情が弛み、持ち上がる無骨な手がサフォーレのあたまを撫でた。
「あと」
「おう」
「皆んなが飛行士にーさんを起こしに行くって、〔ゆめ〕の砂浜のある離島へ行くって聞いて、居ても立っても居られなくて」
涙で言葉の詰まるサフォーレの話の続きを、金と灰の真剣な眼差しが静かに待つ。
「む、無理を承知で、連れて行ってもらうことになったんです」
「うん」
「そしたら、お掃除ねーさんも行くって話になって、それで、力の無いぼくらだけでにーさんとこに行くことになって、にーさん掘り起こすときにちょっと大変なことになって、綿雲でぽーんしたりとかにーさん重くてどすんぱたんしたりとかして」
「ははは。それはもう良いって」
「はわわわわ……蒸し返されるとお恥ずかしい限りです……」
「気にすんなよ、ヴィッダー」
苦笑いに二人を嗜めるシドは、自身の膝元に居るサフォーレの肩を軽く叩いた。
「そっか……俺は、お前の前から居なくなっちゃ駄目だったな」
「……〔おとな〕になって、にーさんの御身体、そんな大変なことになってたんだって、初めて知って」
「ああ」
「……〔こども〕だった頃は、そーゆーことも隠されてたんだなって」
「子どもらに全部伝えんには、ちっと酷な話だからな」
「でも、〔おとな〕になったんだから、そういうことにも慣れていかなきゃならないって……がんばろうと思って……」
懸命に話を続ける御針子に、獣牙色の前髪が頷く。
金と灰の眼許が露わになる。
「でも、がんばれなかった……です」
「そんなん、〔おとな〕だって驚くときは驚くし、つらいときはつらいって」
「ひゃう」
裏返った声を出すサフォーレの肩を、シドはより緩やかに撫で続ける。
「でも、お前の〔ゆめ〕見が悪くなったのは、紛れもねえ俺の所為だろ」
「にーさんの、所為じゃ、ないれすっ」
「サフォーレ」
シドはサフォーレの肩を掴み、視線を合わせて勇ましい眼差しで笑んでみせた。
「つらい思いをさせたな。話してくれて、ありがとな」
「……はいぃっ」
「はは。ほんとにさ」
「ぼくは、にーさんが」
「おう」
「目醒めてくれて……」
「……ああ」
「息を吹き返してくれて、ほんとーに、嬉しいでずっ」
「ははっ。ありがとな、サフォーレ」
とうとう泣き崩れて膝上に臥すサフォーレに、シドは広げた手のひらをそっと載せ、小刻みに震える御針子の髪を緩やかに撫でてやる。
「御針子さ〜ん、良かったですね〜」
「……ぅぁぃ」
「ははは。ネクターにも、随分と面倒かけたな」
「ネクターは〜、だいじょうぶですよ〜」
シドはサフォーレから視線を外し、顔を上げてネクターへ微笑んだ。
「子どもらのことマジで任せられんのは、ネクターくらいだからなー」
「そうかもしれませんが〜」
「おう」
「衛士さんは〜、御針子さんだけでなく、皆さまの拠り所なのですからね〜」
「はは。マジで悪りかったよ」
いつも通りに振る舞うネクターへ労いをかけると、未だ膝上に臥すサフォーレを宥めつつ、今度はグランツィーリーへと視線を向けた。
「大将も、本当にあざます」
「ほっほっほ、サフォーレの〔ゆめ〕見については一件落着ですかな」
「この後、ノヴィにしばらく視てもらって、何も問題なければ、だな」
「ぅぁい」
「はははは。うら、そろそろ目元拭けよ」
最後にもう一度、わしゃわしゃと撫でたサフォーレの髪から手を離し、シドは隣に浮かぶヴィッダーへ振り返った。
「なあ、ヴィッダー」
「はいっ」
「俺のからだ……俺の〈コア〉は今、どうやって動いてる? 俺が動かなくなった後、イヴは俺の〈コア〉を抜いただろ?」
「はっ……御存じですかっ」
「それ以前に、俺はもう〔蜜酒〕無しじゃ動けねえくらいに、からだも〈コア〉も保たなかったはずだ」
「それについてはっ」
ヴィッダーの水塊がふわりと旋回し、勢いに追いつけなくなった雫が砕けて雨粒となる。
「シドの〈コア〉は、主さまが〔蜜酒〕無くとも済みますよう改良なさいましてっ」
「改良? イヴが……」
ふと、同僚のことを一考する。
「そういや、イヴは今日、どうしてるんだ?」
シドの言葉に、サフォーレが顔を上げる。
ネクターは両手を揃えて居住まいを正す。
グランツィーリーは髭を摩り、ディ・ライトは自身の光量を僅かながら抑える。
「主さまは」
「おう」
「……主さま」
「……ヴィッダー?」
口籠もり、視線を落とすヴィッダーに、様子を窺っていたイドロフォーが寄り添う。そして、目を瞬くシドヘつぶらな左眼を向けた。
「シド。今一度、どうかフローランスの元へ赴きください」
「……イヴに何かあったのか」
「わたくしイドロフォーが申し上げます、主さまは……」
そこへ、口籠もっていたヴィッダーが水塊を振り散らした。
「イドロフォー。主さまのことは、ヴィッダーから申し上げます」
ヴィッダーは水塊の巻角を気にしながら、シドの胸許を眼差した。
「主さまは、貴方さまの〈コア〉のために、主さま自らの〈生成コア〉をお使いになりました」
「〈生成〉……」
二人の水塊の挙動から察してその言葉の意味を思い当り、シドは息を潜めて言葉を呑む。
「……端的に申し上げますと、今のシドの〈コア〉には、主さまの〈コア〉が共に組み込まれております」
シドの眼が見開き、左手が力無く胸許を這う。
「……は」
胸許に視線を落とすシドのひと言が止み、金と灰の眼が瞬きを忘れている。
誰もが身動きを止めた〔ガレージ〕内がしんと静まり返る。
サイドテーブルに置かれた椀が湯気を立ち上らせて、隣のグラスを曇らせる。
灯り取りの仄暗さが獣牙色の髪を滑っていく。
奥でカタカタと駆動音が鳴り響いている。
綿雲と浮かぶ水塊が砕けて、水蒸気に成る音が静寂に弾けた。
金と灰の眼が瞬いて、胸許を這う左手が握り拳へと変わる。
「サフォーレ、悪りい」
「は、はい」
「ネクター」
サイドテーブルに置かれたグラスにシドの手が伸びる。
「飲み物ん、もう一杯、貰えっかな」
その眼は、わずかに覇気を灯す。
「は〜い」
シドの手元からグラスを引き取るネクターが、テーブルの向こうへと引き退る。
「ヴィッダー」
「はい」
眼許に雫を溜めている水塊の子どもに、無骨な手のひらが伸びた。
「ありがとな。あいつとの〔御役目〕を果たしてくれて」
「は……」
「俺がああだったんだ。あいつなら、そうするよな」
「……い」
穏しい跫音がテーブル向こうから戻ってくる。
「イドロフォーも、〔蜜酒〕漬けだった俺のからだを〈浄化〉してくれて、ありがとな」
「は、はいっ!」
シドは水塊の二人ににかっと笑み、笑みを返してくれる水塊の掌へ両手でハイタッチを交わす。
そこに、一歩後ろで様子を見守っていたディ・ライトが嬉しそうに笑った。
「衛士さんらしいわね」
「はは。歌姫さんも、本当にありがとうございます」
「私は良いのよ。さっきも伝えたから」
「ははは」
「シド殿」
次に声をかけるのは、野太くも奥ゆかしい低声のグランツィーリー。
「わたしからも、貴方に手渡したいものがありましてな」
「手渡し……ああ」
分厚い手が差し出すのは、グランツィーリーに預けたままでいた、シドのフライトゴーグル。
「もう一度、これを貴方に返せる日がやって来るとは」
「……何度、お礼を言ったら良いやら」
「ほっほっほ。また今度、地下酒場で一杯やりましょうな」
「あざっす、大将」
傍らに置いていた髪留めの上にフライトゴーグルを置き、ネクターから受け取ったグラスの中身をひと息に飲み干す。
「お代わりは〜、いかがしますか〜?」
「いや、もういいや。まだ〈シチュー〉も残ってるしさ」
「それでは〜」
「……にーさん」
「グラスは引き取りますね〜」
手元の空いたシドが、膝元に視線を落とす。
「サフォーレ?」
「あの、差し出がましいかもなんですが」
「はは。そんなことねえよ」
見上げてくる潤んだ瞳が震えてなお、唇を強く引き延ばしている。
「……ぼくでいう、にーさんの存在が、にーさんでいう、カミナリさんだって、思ってますから」
その様子に、シドの眼尻がより優しく弛む。
「ありがとな、サフォーレ」
「ぅぁぃ」
サフォーレの髪を再びわしゃわしゃと撫で回したシドは、深呼吸をしてひと息つくと、サイドテーブルに置かれる〈シチュー〉の椀へと手を伸ばした。
しかし、穏しい跫音が立ち止まると共に、指先が止まる。
「衛士さ〜ん?」
「……駄目だ。今日は、食えそうにねえや」
「そうですか〜」
「悪りい……急に、眠気が、さ……」
手が引き戻るより早く、シドの体勢が大きく前方に傾いた。
サフォーレが咄嗟に支え、倒れ込む速度が緩やかになったところで分厚い手が助けに入る。
『にーさん!』
『シド殿』
強烈な睡魔に手を引かれ、自身を呼ぶ声も天上に引き下がっていく。柔らかな綿に包み込まれ、ただ一寸だけ、ひんやりとしたものが指の間を通る感覚を残し、シドは緩やかに意識の高度を堕とす。
その左手は、〈コア〉の埋まる胸許を離さぬままに。